寄せられたボードゲームのなかから一部ゲームについて「絶対に遊んどけ」と言う観点から思うところを
モダンアート
競りゲームの代表みたいに言われがちですけど、モダンアートって手札のプレイタイミングを見極めるゲームで競りって主要素じゃなくて副要素なんだよね
名作で間違いないのだけどこれじゃないかなって感じかな
寄せられたボードゲームのなかから一部ゲームについて「絶対に遊んどけ」と言う観点から思うところを
競りゲームの代表みたいに言われがちですけど、モダンアートって手札のプレイタイミングを見極めるゲームで競りって主要素じゃなくて副要素なんだよね
名作で間違いないのだけどこれじゃないかなって感じかな
たぶんゲーム製作者なんだろうけど微妙なポスト見かけたのでそれについて
引用すると、なんでも
ゆる募。ボードゲーマーの皆さんのお力貸してください。 ラウンド制じゃないワカプレを採用しているゲームをご存知の方いらっしゃったら教えてください! それ〇〇にならんか?みたいな指摘などがあったら是非ご意見ください。 新作ゲームで考えているシステムが成り立つか検討してます。
だそうです
これの微妙な点について
似たシステムが有る/無いそれぞれの場合について考えてみる
無い
仮に似たシステムが無いとしてもこれは悪魔の証明と言うヤツで立証できない
無いものを無いと言い切るのは無理
有る
返信みてても〇〇が似てるとかそんなのあるんですけど、仮に〇〇が似てるとしましょうよ
そんでそれがパクりかどうかってどうやって判定するのか
コイツが「〇〇は全然ちげーよ、似ても似つかねー」って思ったとしてそれがパクりにならない保証なんて無いし「〇〇はそっくりだ」って思ったとしても全然パクりでもなんでもなかったりするかもね
ってか、このポスト自体が制作ゲームの宣伝目的なのかもねってのはあるわな
パクり判定でそれなりに拡散させておいてから実際のゲームを売りつけるって段取りなのかもね
結局身も蓋も無いこと言うと、とーしろーが思いつくようなもんは所詮たかがしれてるわけでさ、とっくに誰かが作ってるんじゃねーの
昨今はボードゲーム界隈も日々新作の紹介に躍起になっている様相ですが、しかしスゴイ進歩ですよね
今では毎日新作を目にするようになっていまして、それだけリリースされているということなんでしょうが
ただ自分の中で「新作」と言うことでは購入対象にしないように心がけているところがありまして、どれだけツマラナイゲームに対しても「新作」と言うのは有効というところがあるかな
購入対象にしてもいいようなゲームの判断基準の一つに数年、2,3年後にも高評価として残っているようなゲームをしたいなという希望がありまして、購入は当然として遊ぶタイトルもそのような良いゲームばかり遊びたいなみたないところがありますね
「これ発売されたばかりの新作なんだ」って言われてもふーんって感じなんだけど
人々の心の奥に発売されると言うことは良いゲームなんだろうねって言う思い込みがあるからなんじゃないのかな
1990年代ならそうかもだけど、2024年現在においては発売されたからと言って良いゲームとは言えないんだよね
ボードゲーム遊ぶのは好きなのだけど、ボードゲームカフェってのに行く気になれないんですよね
結局たいして遊びたくもないゲームをやることになってさらにお金を支払うことになるからだと思うのだけど
本当にやりたいゲームだけ遊べる環境に対してならもう少しお金払ってもいいような気がしますが
もし希望ゲームのみ遊べると仮定した場合5,000円くらいなら払えるんだけど
で、平日4人で20,000円*22、休日8人で40,000円*8とすると440,000+320,000で760,000ってスゴイ
ボードゲームカフェやろうかな
ボードゲームの競技性について考えているんですけど、ここで言ってる競技性っていうのは真剣勝負に耐えられるかどうかみたいな話でして
そのゲームに対して適正が高い人が勝利する度合いとかそんなことが言いたいとして
例えば4人プレイゲームで各プレイヤーの適正が全く同じと仮定した場合勝率は1/4で25%だけど、そのうち一人が圧倒的適正を有している神様だとしたら勝率100%までもっていけるみたいなこと
でも、現実的に4人プレイゲームで勝率100%ってのはちょっとあり得ない感じしますよね
プエルトリコで勝率100%って相当あり得ない気がするので
4人プレイゲームで勝率50%ってのも相当な数字な気がします、記録とか取ったことないからあくまで感想ですが
あとこれだけ頻繁にリリースされているボードゲーム全てが高い競技性を有しているとは思えないんだよね、「お金戦略が強い」みたいなのとか邪魔されなかった人が勝つとか
その人の適正なんかよりも手番順だったりの方が勝利には重要だったりすると思うんだよね
最近の多人数ソロプレイゲームだとそのゲームで高得点が見込める戦略取ってうまくいった人が勝つみたいなのとかを真剣にやる気になれないんだけど
それで10分とか考えられても参るから、そんな競技性の低いたかがボードゲームなんでそこまで無駄に時間使うことないんじゃないかなと言うのが主張です
早く打ちましょう
世の中のみんなは決して旧作に興味ないわけじゃなくて
そんなぼっさいゲームの存在をイチイチ時間費やして調べてわざわざ買う人たちがそもそも極少数しか存在しないからに決まってる
そんでそれらの人たちに行き渡ったらあとは売れ残るのみってだけ
売れない原因ってのは誰も知らないってこと
存在を知って欲しがってる人達に行き渡っただけ
だから企業は巨額の広告宣伝に予算を割いてるし、広告宣伝を請け負う人たちが存在するわけでさ
世の売れてるものってのが一体どれだけ広告宣伝に予算割り当ててるか知らないのかね
長考とは果たして何なのかと、その対策について考えてみます
長考とは
ボードゲームで自分の行動を決めるために過剰な時間を要すること
長考はボードゲームを遊ぶ際に一切不要で、無駄で、他プレイヤーに対して迷惑でしかない行為であり、百害あって一利なしの行為の最たるものだと言える
にもかかわらずこの世には長考がはびこっている
なぜそんなものが存在するのか考えてみます
全く不要であるはずの長考と言う行為が現実に起こっているということは、長考するための理由がきっとあるはず
ということで、その理由について考えてみます
真っ先に思いつくのが宗教儀式としての長考
長考教を信仰している人たちが行う宗教儀式が長考だと考えると全ての謎が解けます
長考教の信者は長考することが人生の目的であり生きる意味であると考えられます
これは、ボードゲームで長考する必要がないことからも容易に推測できます
もちろん言うまでもなくボードゲームするよりもはるかに重要なのが長考
でなければ毎回長考するなんてありえません
長考教の神に対する信仰の深さを表すために長考しているとしか考えられない
そして、長考教の信者は長考できる機会があれば必ず長考します
ボードゲームに限らず長考します
どんな些細なことでも長考します
敬謙な信者ほど長考によって長考教の徳を積むことを怠りません
長考教の信者は無駄で迷惑でしかない長考をあたりまえのように繰り返します
長考教に対する信仰心がない一般人にとって長考が理解不能であるところからもこの考察が正しいと推測できます
ということで、無価値な長考する理由は宗教上の理由以外考えられません
そして、長考が宗教儀式だとすると長考を防ぐ手立ては存在しません
長考を防ぐ手段について多数の人たちが日夜様々研究、発表されていますが、どれも長考を解決するには至りません、非常に残念です
例えば長考に対して罰金を科すや、勝利点、資源の支払いを求めるなどのペナルティは意味をなしませんし、もちろん時間制限を設けても無意味です
長考教の信者にとって長考することは人生の目的であり生きる意味であるので金銭や勝利点を差し出すことなど意に介さない
そんなことよりも長考することによって長考教の徳を積むことの方がはるかに重要
何より重要なのが長考
とにかく長考
長考するぞー、長考するぞー
ってことですね
長考という修行を重ねることで長考教の神に近づけると信じているので、長考教の呪縛から解き放たれる以外の解決策はありません
長考教の信者に対して、いくら長考は無意味で無駄で迷惑だと説得しても全く効果ありません
なぜなら長考教の信者にとって長考は神に近づく尊い神聖な行為なのだから
と、いうことで長考する人と同卓した場合は長考教の信者の宗教儀式に付き合わされていると諦めるしかないですね